相撲起顕星取表BBS

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天保十四年冬の千年川 相撲史研究者・田中 健

2023/05/11 (Thu) 21:54:34

 天保十四年冬場所五日目中入り後の取組
順序を調べて、番附外出場の千年川は幕尻
格なのか…疑問を感じました。
 幕下筆頭格が穏当かも知れません。

Re: 天保十四年冬の千年川 - しろしたかれい

2023/05/15 (Mon) 21:55:06

田中様

書き込みありがとうございます。
当場所の千年川の取組順につき見直したところ前場所の番付地位である二段目5が相当と考え星取表勝負付を修正いたしました。
天保13冬前頭7→天保14春二段目5への降下も当時としては異例ですが欠場続きへのペナルティといったところでしょうか。ならば天保15年春の幕内復帰も頷けるところです。
今後ともよろしくお願いします。

四ツ車与太夫 - やまびこ勘太郎

2023/04/03 (Mon) 23:43:25

いよいよ弘化年間まで来ましたね。
弘化2年春場所、二段目張出に四ツ車与太夫という力士がいますが、格付はどのぐらいでしょう。取組順からすると、二段目15枚目格ぐらいですかね。

Re: 四ツ車与太夫 - しろしたかれい

2023/04/04 (Tue) 22:10:53

やまびこ勘太郎様

確かに取組順を見ると二段目15あたりのようですね。翌場所の番付が東二段目16ですしご推察の通りと考えます。

Re: 四ツ車与太夫 - やまびこ勘太郎

2023/04/06 (Thu) 21:14:34

返信ありがとうございます。
江戸時代以来の十両(十枚目)以上の力士について調べている私としては長年気になる存在でした。

文化5年春場所星取表について スギウラ

2021/10/09 (Sat) 07:56:45

文化5年春場所星取表の中で、「藤嶋甚助」という人がいますが、他に情報無いでしょうか?
よろしくお願いします。

Re: 文化5年春場所星取表について - やまびこ勘太郎

2021/10/11 (Mon) 19:12:08

横から失礼します。
この人物については、『江戸時代相撲名鑑』(飯田昭一∥編)と、雑誌『相撲』平成2年2月号「年寄名跡の代々」(小池謙一)により、だいたいの経歴をつかむことができます。既にご存知かもしれませんが以下のとおりです。

甲斐国出身、明和7年生まれ。先代藤嶋甚助門人。始め三ツヶ濱利右衛門と名乗り寛政4年春場所序ノ口に出る。徐々に出世し9年秋場所二段目に昇進。最高位は10年秋場所の西二段目10枚目で、この場所9日目に師匠の名である藤嶋と改名。12年春場所限り引退。文化12年6月27日没、享年46歳(数え年)。現代に続く年寄藤島の3代目とされています。

Re: 文化5年春場所星取表について - スギウラ

2021/10/12 (Tue) 15:44:14

やまびこ勘太郎様
貴重な情報をありがとうございます。
大変参考になりました!

文化七年春の欄外、階 相撲史研究者・田中 健

2021/08/18 (Wed) 08:37:40

 文化七年春場所の番附欄外「階」は
取組順序から判断されて…幕尻格、
幕下筆頭格の何れが妥当なのでしょう
か…❔

Re: 文化七年春の欄外、階 - しろしたかれい

2021/08/23 (Mon) 23:40:34

田中様

取組順序からみた階の地位ですが、五日目六日目を精査したところ西二1大鳴戸の次位と見るのが矛盾がないようです。

文化7年春場所 - やまびこ勘太郎

2021/05/09 (Sun) 19:30:21

文化7年春場所の備考欄に、片男浪に関する記載がありますがどうもしっくりきません。もしかして次の7年冬場所のほうに記載される内容ではないでしょうか。

Re: 文化7年春場所 - しろしたかれい

2021/05/10 (Mon) 21:29:41

やまびこ勘太郎様

ご指摘ありがとうございます。文化七年春冬両場所修正いたしました。今後もよろしくお願いします。

幕下二所ヶ関銀十郎 相撲史研究者・田中 健

2021/04/05 (Mon) 08:23:27

 当方、文化二年冬、翌三年春の両場所とも
古番附コピーを所蔵していますが、幕下力士
「二所ヶ関銀十郎」が「二所ノ関」と名乗った
ことはありません。『起顯』に「ノ」とあれば
それこそミスです。

Re: 幕下二所ヶ関銀十郎 - しろしたかれい

2021/04/15 (Thu) 12:51:43

当ホームページは相撲起顕を星取表にするのを一義としていますので、管理人自身が実際の番付を見て誤りを確認したものについてはその旨記載しますがそうでない場合には相撲起顕の記載を優先します。ご了承ください。

番付になかった力士の出場について - 田口茂

2021/02/12 (Fri) 10:39:46

その場所に番付になかった力士が、出場したときの地位というか、呼び名について、お尋ねします。
基本的には、初めての場所に登場する力士は「付け出し」。
(現在がそうです。例えば幕下何枚目格付け出し)

現役の力士が、何らかの事情があって番付にないときに、その場所に出場したときは、「番付外」という理解でよろしいでしょうか?
(過去の江戸時代の小野川、雷電、稲妻、陣幕らが、番付に
載っていない場所が多々あります)

稲妻雷五郎がデビューした文政4年2月(当時巻ノ嶋)西二段目格番付外となっていますが、厳密にいうと「付け出し」ではないでしょうか?
というのは、他のいくつかの文献を調べたところ、稲妻のデビュー場所は「付け出し」という表記しています。
といっても、酒井日本相撲史でもそうですが、「付け出し」か、「番付外」というのは明確な区別をして使ってないようです。その時々によって使い分けているような感じがします。

しろしたかれいさんはどのように使われてますか?

Re: 番付になかった力士の出場について - 田口茂

2021/02/12 (Fri) 14:56:25

番付外でデビューするときは、何枚目格付け出しと呼びますが、いきなり番付けに登場するケースも「付け出し」です。
雷電が、いきなり関脇に登場。谷風のときは看板大関でしたが、いきなり番付に大関と。

小野川、稲妻、不知火諾、雲龍らは二段目付け出しと記述されていますが、稲妻は番付外で小野川、不知火諾、雲龍は番付に載っています。

小野川  西二段目1
不知火諾 西二段目28
雲龍   西二段目25

Re: 番付になかった力士の出場について - しろしたかれい

2021/02/13 (Sat) 22:12:50

田口様

当サイトでは番付記載の力士以外で取組に出場した力士は番付外に統一し、取組順から推測される地位を〇〇格と表記しています。
初土俵の力士は付出ですし五段目に場所途中から取組む場合は新序と表記すべきかもしれません。
しかし全力士について改名や混同など資料の不備で初土俵や最終場所をはっきりさせることはできませんので番付外表記に統一しています。

番付から消える? - 田口茂

2021/02/10 (Wed) 09:32:09

歴代横綱の下位時代(幕下以下)の成績を調べています。
阿武松の二段目当時(四股名は小柳清蔵)、文政4月10月だけ
忽然と名前が消えています。次の場所は小柳長吉として復帰。
こうした例は不知火諾、秀ノ山の二段目時代にも見られます。
天保4年10月、5年1月、10月。彼らの名前がありません。
二段目時代の彼らの四股名は黒雲、天津風。
そして10月場所の後半。彼らは番付外として出場しました。

江戸時代の大関力士が番付に載ってない。小野川、雷電為、稲妻らにしばしば見られます。理由としてはお抱え藩の事情によるものとかのようです。よくわかりませんが。
しかし、幕下以下の力士が番付が、突然消えるというのは理解できません。特に小柳(後の阿武松)の場合。どういった事情が考えられるでしょうか。現在だったらもちろん考えられないことです。明確な理由がなければいいです。疑問点としてコメントしました。

Re: 番付から消える? - しろしたかれい

2021/02/13 (Sat) 21:51:14

田口様

阿武松の小柳は幕下に上がってから文政3年冬まで盛岡頭書でしたが文政4年春は江戸頭書に変わっています。文政4年冬の欠場が関係あるかはわかりません。
黒雲は文政13年冬の初土俵から、天津風(北山)は次の天保2年春から雲州を頭書にしており、天保4年冬から5年冬は稲妻らと同様雲州絡みの欠場と思われます。文政13年冬に黒雲と北山は対戦しており(黒雲勝)北山はそこで実力を認められて抱えとされたのかもしれません。

抱え関係以外で番付から消える理由はわかりません。頭書が江戸でも出入りなどで大名抱えに近い立場もあったようですし、脱走・破門→復帰というケースもあるようです。

明治大正の星取表 - 田口茂

2020/11/27 (Fri) 10:26:22

星取表の作成ご苦労様です。少々お尋ねしたいと思います。
江戸時代の勝負付は「相撲起顕」に掲載されているということですが、それでは明治大正の勝負付というのは、どこで発行されているのでしょうか。「相撲起顕」からの引き継いだ形の「相撲協会」?でしょうか。
ある好角家によると、一部下位の成績が不明のようです。つまり常陸山、梅ヶ谷の総成績が完成しないとのこと。
(あと昭和初期の地方本場所の下位の成績が一部不明)

それと江戸時代の大阪、京都相撲の件です。
書物によっては大阪相撲の成績が載っているものもあります。
例えば谷風について関西の成績についても詳しく載っています。酒井相撲史も断片的に他の力士も載せています。
その資料はどこからとったのは不明。
そこで伺いたいのですが、関西版の「相撲起顕」というものがあったのでしょうか。
私が思うのには関西の大阪、京都相撲の資料は完全に揃っておらず不完全なので、江戸時代の力士は「江戸相撲」のみの成績になったのだと思われます。

江戸時代は一つの組織「相撲会所」?が江戸、関西と回って興行していましたが、明治に入ると東京と大阪は別組織になりました。別々に興行。東西の出入りが激しかったのはご承知の通り。

Re: 明治大正の星取表 - しろしたかれい

2020/11/29 (Sun) 00:16:41

勝負付は本場所中毎日取組が終了したあとに一日の勝負結果を中入前分と中入後分に分け木版刷りして会場で販売したものです。
明治以降に新聞に相撲記事が載るようになると役割を譲りましたがそれまでは勝負付が速報であり公式記録でした。
一般に販売されなくなっても報道用などで昭和まで作成されていたようです。
文政十年春場所および冬場所の星取表のページに勝負付実物の画像をリンクしています。

江戸の興行の番付および勝負付が相撲起顕にまとめられたのは、番付勝負付の版元を宝暦以来一貫して三河屋(根岸家)が代々勤めていたことが大きいでしょう。
京坂では版元が交代してたりしますしまとめようと企画するものがいなかったかできなかったか。
相撲起顕に記載されている期間でも勝負付が現存していない場所もあるので相撲起顕として出版されていたのは後世のファンにとっては有難い事でした。
京坂の勝負付も多く残されており、相撲博物館に問い合わせれば成績など回答はあるかと思いますが相撲起顕のようなまとめたものがないため目に触れる機会がありません。

明治期に東京相撲の下位の成績が不明なのは勝負付の出版の際にスペースの問題で下位の取組が省かれてしまったためです。
昭和初期の地方本場所の成績は戦前に山本義一氏が入幕力士の初土俵以来の星取表を作成した際には協会内に存在していたようですが、東京大空襲か戦後の混乱のうちに失われたようです。

Re: 明治大正の星取表 - 田口茂

2020/12/01 (Tue) 10:00:29

色々とご教示ありがとうございました。

天保2年冬場所の二段目番付 - やまびこ勘太郎

2020/09/21 (Mon) 21:46:08

いつも更新楽しみにしています。

天保2年冬場所の西方二段目についてです。
酒井相撲史では、
番付は西10枚目が相生、西11枚目が朝風ですが、
星取表では、10枚目の位置に朝風が記載され相生は記載されていません。
こちらのサイトでは西10が相生、西11が朝風として掲載されています。
ネットで公開されている『相撲起顕』(盛岡市中央公民館蔵)で当場所を見ると西10は朝風、西11は相生になっているようです。
要するに、朝風と相生のどちらが上かよくわかりません(勝負付け見てもよくわからないようです)。
ちなみに、ウェブサイト「大相撲星取表」では西10枚目が朝風になっています。
こちらのサイトでの掲載にあたって調査・考察されたことなどありましたらご教示ください。

Re: 天保2年冬場所の二段目番付 - しろしたかれい

2020/09/23 (Wed) 17:08:13

やまびこ勘太郎さま

書き込みありがとうございます。天保二年冬場所の二段目10相生と11朝風は実際の番付(ヤフオクに出ていた画像)によっています。
しばらく更新していなかったため注釈をいれるのを忘れていました。
また更新しましたらよろしくお願いします。

Re: 天保2年冬場所の二段目番付 - やまびこ勘太郎

2020/09/23 (Wed) 19:21:23

回答ありがとうございます。

やはり原典を確認されていたのですね。
これでまた一つ疑問が解けました。


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